脾臓の日記

思考のごみ箱です。

20240429 生活改善

部屋が綺麗だとこんなにも心に余裕ができるのかと驚いている。

 

 

GW前半の3連休、夫が帰省して家にいないし、どこかに出かけたらお金を使ってしまうし...という理由でずっと家にいた。

 

そして、ずっとやりたかった服の断捨離にようやく着手した。

 

わたしは洗濯→乾かす→畳むという一連の工程が苦手で、洗濯はすべて夫に任せきりで、乾いた服は床に積み上げていた。何を隠そう、朝は山積みになった服から着るものを選び、帰宅後に洗濯に出し、洗われて干された服をまた重ねていくというサイクルを繰り返していたものだから、せっかく購入したニトリのタンスに服が仕舞われることは週の間で一度もなかったのである。嗚呼、マンションの4階まで重いタンスを運んでくれたお兄さんたちになんと申し訳ないことか...。

 

その癖、毎日「着るものがない」という事象に陥って困り果てていた。あるあるの問題だと思うが、そもそもなぜこのようなことが起こるのだろうか。

 

第一に考えられるのは、着回しを考えずに服を購入しているということだ。しかし、服を畳んで仕舞うのが億劫になるほど服があるなら、多少ダサくても服同士を組み合わせて着回すことは可能なはずである。そうなると考えられる原因は、「好きではない服」「着なくなった服」を大量に持っていることだ。すなわち、こんまり風に言えば「ときめかない服」である。

 

というわけで、こんまりメソッドに則ってタンスとクローゼットに入っている服をすべて床に広げて片づけを始めたのだが、まあこれが進まない。途中でスマホを見てしまったりして(次の課題としてデジタルデトックスに挑戦せねばなるまい)、2日目の夕方にようやっと服の仕分けを終えることができた。捨てる、もとい手放すと決めた服の量は20Lのゴミ袋2つ分になった。毛玉ができていたりよれていたりといった服(わたしはこのように寿命を迎えた服のことを「ゾンビ」と呼んでいる)、個性的な服やミニスカートなど社会人としては着る機会が少なくなった服、そしてときめかない服などである。売れそうな服はメルカリに出す予定なのだが、疲れてしまってまだ一部しか出品できていない。

 

それにしても、タンスとクローゼットの空間に余裕ができたのは嬉しい。「ありがとう」と言いながら手放す服を綺麗に畳んでゴミ袋に詰めてゴミステーションに置きに行き、戻ってきてメルカリ予備軍の服たちをまとめると久しぶりに部屋の床が完全に見えたので、ほかに床に散らかっていたものを片づけてルンバを稼働。ずっと布を見ていたらシーツを洗いたくなったので、寝具を洗濯&乾燥。夕方になったので夕食をつくり、明日の弁当を詰めて、洗いものをしたついでに排水溝も掃除。洗面所と浴室の排水溝も掃除。明日の燃えるゴミをまとめて、テーブルの上を片づけて...今に至る。部屋、こんなに綺麗にしたのいつぶりだろう...。なんだかそわそわする。こんなにうまくいくことってあるんだ、えっ、逆に言うと、部屋が綺麗な人はいつもこんな余裕の中で生活しているのかと、唖然。

 

つい先月まで雪国特有の冬季鬱のようになっていたのだが、こういうふうに、少しずつ生活を改善できたらよいなと思う。

 

 

とりあえず明日の仕事もうまくいくことを祈って、寝ます。

休日の最適解

休日の過ごし方の最適解が分からないまま、今回の3連休も終わりを迎ようとしている。

正解などないと分かってはいるが、休日は有意義に過ごして然るべしという固定観念を払拭するのは難しい。

朝は平日と同じように早く起きて、料理や掃除などの家事をこなし、趣味に時間を費やして夜更かしをせずに眠りにつく...のが世間的に理想とされているような気がする。

所謂「丁寧な暮らし」というものかもしれない。

休日に何も予定がなかった場合、月曜日に会社で「土日は何をしていたの?」という質問に耐え得るのは、この「丁寧な暮らし」をしていた場合のみである。

生活を構築できていたかどうかすらも危うい休日を幾多と過ごしてきた身としては、そんな暮らしはとうに諦めており、なんとか自分の理想と現実の乖離にも折り合いをつけられるようになってきた。

望まずとも評価される日常で、せめて休日の過ごし方だけは、自分の評価からも他人の評価からも切り離されたものであってほしいと思う。

はじめてのブログ

はじめまして。

 

日々脳内が思考という名のごみでぐちゃぐちゃになっていて、それをアウトプットして捨てようと思ってブログを始めました。

 

自分が考えているつまらないことを家族や友人に聞いてもらうのも申し訳なくなってきたし、紙のノートでは書くスピードが思考に追いつかないし。

 

新しいことを始めるのって、いいね。